(それで――それで浄須は楽になれるっていうのか)
真楯の背に、しびれにも似たものが走った。
ならば大仏が天皇の妄信の結果であろうとも、そんなことはどうでもよい。大切なのはこの浄須がまだ見ぬ大仏を信じているという、その一事。死にゆく男が目に見えぬ慈悲に身を委ねる事実の前には、大仏が何によって造られるかなど大した話ではないではないか。
紹介
仏法に厚く帰依する首天皇(聖武天皇)は、寧楽(現・奈良県奈良市)の都に前代未聞の巨大な大仏を造立することを詔した。各国の若い正丁(良民の成人男性)たちは仕丁として徴用され、3年間都で労役を果たすのが義務であった。近江国(現:滋賀県)から、恋人の小槻を残して上洛してきた主人公・真楯もその一人。同じく徴用されてきた鮠人や子刀良とともに、今日も真楯は気の良い仕丁頭の猪養のもとで一日汗を流し、炊男の宮麻呂が作るうまい飯を掻っ込む。
信仰心とはなんなのか。大仏造立を発願した聖武天皇、指揮を執る国公麻呂、実際に汗を流す仕丁たち、行基上人とその信者たち。奈良の大仏を巡って次々と起こる事件を通し、それぞれにとってのほとけの姿が浮き彫りにされる。
大仏を作ろうと志したのは天皇であり、大仏の作り方を知っているのは役人たちなのかも知れない。しかし、仕丁たちにとって大仏は自分たちが命を削って、長年の歳月をかけて臨む一大事業である。仏法や経文を知らなくても、仏教を信じていなくても、宗教的な意義以上の思い入れや信仰心がそこには染み付いていくだろう。彼らの流した汗や涙は、今でも奈良の大仏として私達の目に触れている。
歴史上の英雄たちが大事業を成し遂げる裏には、いつの時代でも何千何万という民衆たちがその手足として働いている。彼らが笑い、喜び、悩み、苦しむ様子はいまの私たちと何も変わらない。時代が変わり、社会の仕組みが変わっても庶民はたくましく生きていくのだろう。だがそれは裏返すと、時代設定と舞台を奈良時代に変えただけのお仕事小説という誹りを受ける可能性もある。
神は細部に宿るというが、本作では寧楽(奈良)や須々来(鱸)など、時代を感じさせる語彙が豊富に用いられていて、自然と当時の雰囲気が入ってくる。食器や身分制度などの考証も重厚であり、そういった意見を一蹴するだけの奈良時代を描いた小説としての説得力を与えている。