「されば、汝は、大神の生太刀をもちて、平の朝臣を偽り騙る織田の三郎信長を追い伏すべし」
聞いていて、光秀は総身が凍てついた。血が凍り、一切の感覚が遮断された。
主人である織田信長を、御神刀で討ち果たせ、と言われている――。たしかにそう聞こえた。空耳ではない。
「織田の三郎信長なる者。邪き心をもち、このまま世を治らしむれば、万の禍ことごとに発るべし。信長死すべし。信長死すべし。汝が討ち果たしつれば、わが宮の首に任けん」
データ
ジャンル:歴史小説
主人公:織田信長
主な歴史人物:正親町天皇、明智光秀、近衛前久、吉田兼和、勧修寺晴豊、里村紹巴、徳川家康
時代背景:安土桃山時代(戦国時代)
天正10年4月22日(1582年5月14日) - 6月5日(6月24日)
紹介
正親町天皇は焦っていた。いよいよもって織田信長の専横が極まり、朝廷を尊ばない傲岸不遜な姿勢が目に余っていたからである。今度は大坂に遷都し、新たに築く城に天皇を幽閉するという野望を抱き始めている。誰にも理解の及ばない時代を築こうとしている信長を野放しにしていれば、取り返しのつかない事態が訪れる。すでにその片鱗は見えている。猶予はないのかも知れない。
織田信長は悩んでいた。天皇という存在が理解できない。実力を持ち、天下を握っているのは己である。なぜ公卿たちや、明智光秀のような文化人たちは朝廷を重んじるのか。ひらめいた。神とは己、織田信長である。
もう我慢ができなかった。天皇は関白・近衛前久を呼び寄せた。節刀を差出し、勅を与えた。信長討つべし。
本作の本能寺の変は正親町天皇その人が発起し、公卿たちが明智光秀を引き込んだという朝廷黒幕説を採っている。
その設定に無茶を感じさせないほど、本作の織田信長は強烈に狂っている。並大抵の狂い方ではなく、もはや狂人である。戯曲の中で描かれる暴君「皇帝」の姿そのものと言っていい。自分を神に擬し、周囲に崇められることを当然と思う姿は、ネロやカリグラを彷彿とさせる。既存の権威を軽んじることと、権威を重んじるものを弾圧することはまったく及ぼす影響が違うが、そのことすら忘れてしまうほど狂ってしまっている。それでいて実行力と知能は冴えわたっており、決めたことはすべて成し遂げると思わせるだけの凄みを備えている。
その狂った信長に、喉元に刃を突きつけられているのが正親町天皇。狂人のなしように怒りを滾らせ、それを除く手段を探し求めている。
狂人と志尊の両者に挟まれ、近衛前久や明智光秀ら、権威を重んじる者たちは命を懸けた綱渡りを強いられる。彼らもまた、信長と天皇を天秤にかけ、謀略に巻き込まれた者同士の間でも生き残りを図らんと必死になる。信長を除く登場人物の誰もが暗く重い選択を迫られ、信長殺しの密謀はこじれていく。